「心に咲く花会」樋野興夫コラム

一般社団法人がん哲学外来 理事長 樋野 興夫(順天堂大学 名誉教授)コラムです

第3回 『一億本の向日葵』 ~祖母の遺してくれたもの~

第3回 『一億本の向日葵』

~祖母の遺してくれたもの~

    私には96歳と85歳の祖母がいます。96歳の祖母は、3年ほど前に軽い肺炎と脳梗塞を併発し、重い要介護状態となり、それからは入所型の施設でお世話になっていました。安定して過ごしていましたが、昨夜容態が急変し、救急搬送された病院で心臓の鼓動を終えました。その瞬間を家族と共に迎えられたことは、きっと祖母にとっても私たち残されたものにとっても救いになると感じました。

生まれた時から一緒に暮らし、身近な祖母でしたが、感情的で激しい性格だった祖母の声が子どもの私には怖く、耳をふさぐこともありました。もちろん可愛がってもらったこと、どこかに連れて行ってもらったことなど良い思い出も優しい笑顔も私の中には残っています。祖母が高齢となり、私が支える側になった頃には不安や寂しさからくるのでしょう、「死にたい死にたい」といつも言っていて、それに耐えきれなくなった私は必要最低限のこと以外は距離を置くようになっていました。祖母の足音、息づかいすら私を緊張させました。祖母の孤独感を何とかしたい、でも優しい言葉一つかけられない、無意識に避けている自分への嫌悪感、罪悪感は大きなものでした。90代になった祖母との時間はそんなに長くはない。そう感じていた私は、祖母を許し愛すこと、自分を許し愛すことを求め続けていました。「今日は寝たきりになった祖母を抱きしめよう」と意気込んで施設に行っても、できたのは足をさすることだけ。「優しい言葉をかけよう」は低い声での「ごはんおいしく食べれてる?」だけ。自分の不器用さと過去のわだかまりの大きさを感じられずにはいられなかった。安定した状態で過ごしていると思ってあまり顔も見に行っていなかった私の前に、最期の時は急に訪れました。たまたま実家に帰っていた私は入浴中の父に代わって、施設の名前が表示された父の携帯電話にでました。「容態が急変して、今サチュレーションは60程です。施設に来て頂けますか?」と看護士さん。「わかりました。すぐに伺います。」と電話を切って数分も経たないうちにもう一度電話がなりました。「脈はとれていますが、呼吸が停止しました。急いできてください。」と。救急車を呼んでもらい、救急車とほぼ同時に病院に駆け込みました。救急隊員、病院の方々の対応で心拍はまだ残っており、人工呼吸器で何とか呼吸を確保できていました。家族に手渡された延命治療の選択。対応して下さった先生の温かく思いやりに満ちた声を聞いて、「祖母の最期を息子と一緒に静かに見守りたい。」と心の底から思いました。言いたくてもずっと言えなかった言葉。「優しくできなくてごめんね。ありがとう。」その言葉が自然と出てきた瞬間、自分の気持ちもスッと軽くなった気がしました。祖母は、理想的な優しい祖母ではなかった。でも、私に「愛を受け取る、愛を差し出す」という大きなレッスンを遺してくれたのだと思います。今やっと言える「ばば、私のおばあちゃんでいてくれてありがとう。」私たちにとっての最高のプレゼントでした。

祖母は天寿がんを生き切りました。

ひまわり担当/斉藤