第5回 『一億本の向日葵』.
~がんと共に生きる①・ひまわり編~
私が「がん」という病と初めて出会ったのは、祖父の膵臓がんであった。残念ながら見つかってからわずか3カ月という早さで旅立ってしまったが、その3カ月はとても密度の濃い時間であった。入院で緩和ケアを受けていた祖父に、代わる代わる家族が付き添って、寝泊りしていた。当時19歳であった私も祖父の病院に一緒に泊まった。大好きだったお酒、たばこもコソコソと楽しんでいた祖父。ならば!と大好きだったかりんとうを持って行ったが、食べることが出来ず、付き添った日の食事は「チー、食べろ。」とほぼ私の口に入っていた。その年の7月下旬、甲子園の中継が流れる中、家族と未来の家族となった兄の彼女とも時間を過ごし、安心した様子で祖父は旅立ったように思う。祖父のがんはなぜか私に恐怖感ではなく、温かい思い出だけを残していってくれた。
それから13年後、私の胸にがんが見つかった。祖父との経験があってか、私にはこのがんが贈り物のように、また私の中の小さな抵抗のように感じた。主治医の先生が増殖スピードの速い私のがんを「ちょっと暴れん坊の細胞です。」と表現した時に、そりゃそうだと私の性格と重ね合わせてとても納得したのを覚えている。
「このがんは何を教えに来たのだろう。」私の中で擬人化された私のがんとの対話により、一時的に治療を中断し、病院や身近な家族にも迷惑や心配をかけたこともあった。それは本当に孤独な時間でつらさも伴ったが、今とても大きなものを残してくれている。
その後2年間の治療を経て、日常に戻りつつある頃、地元紙で紹介されていた荻原菜緒医師が月に一度自宅を開放して開催している「軽井沢 あうんの家」に参加した。そこで初めて、自分の本心を言葉にし、頑なになっていた気持ちを開放することができた。リラックスしてふと目をやった本棚に「がん哲学」という文字が見えた(当時は樋野興夫先生を存じ上げていなかった)。その時、その「がん哲学」という言葉とがんと共に歩んできたこの2年間が、パズルのピースのように合致した気がした。光が差した瞬間であった。
未だに「このがんは何を教えに来たのだろう。」の問いにはっきりとした答えは出ていないが、樋野先生や荻原先生、佐久ひとときカフェの皆さま、力を貸して下さる多くの皆さまとの出会いが、この問いかけの大きなギフトです。
祖父がくれた経験という大事な贈り物も胸に抱いて、向き合っていきたいと思います。