第91回「心に咲く花会」
「表面的なhappy」vs「内から湧き出るjoy」 〜 「大切な存在」(to be) と言ってくれる者の「声」 〜
コロナショックの自粛の日々である。 穂高で、今は亡き 日野原重明先生(1911-2017) (聖路加国際病院理事長・同名誉院長、聖路加看護学園理事長) の白寿〔99歳〕のお祝いで 講演の機会を与えて下さった 名古屋の医師夫妻から、1954年シュバイツアー博士のアフリカのランバレネ病院に行かれた野村実博士 (1901-1996) の『野村実 著者集』(上・下巻)が送られて来た。 早速、読書の時ともなった。 特に下巻の「医療と福祉」は、現代に生きる内容であり 医療者にとって必読の書であると思えた。 そこには、「ロゴテラピー」(フランクルの提唱)について書かれてある。 対話によって「その人らしいものが 発動してくる」、「ことばというものを通じて 外に出てくる」、「人間の独自性」であろう。まさに、「大切な存在」(to be) と言ってくれる者の「声」であろう。「患者さんの目を見て あげなさい」という「人間学」である。アウシュビッツを自ら体験したフランクルの「希望」(『夜と霧』)は、「明日が世界の終わりでも、私は今日りんごの木を植える」(ルター)行為を起こすものであろう。 まさに、「がん哲学外来」の目指す処方箋でもある。
日野原重明 先生のサイン入りの『平静の心 —オスラー博士講演集』(日野原重明・仁木久恵訳、医学書院)も贈られて来た。 大いに感激した。「医学の座右銘」は、当時、ジョンズ・ホプキンズ大学教授であった オスラー博士(1849-1919)のトロント大学での 招待講演(1903年)の記録である。
(1)「医学以外のことにも関心を持ち、教養を高めよ」
(2)「心から慕える偉人を選び、その書を系統的に読め」
(3)「寝る前に30分を読書に」
は、筆者が若き日に学んだ教訓でもある。
1908年、新渡戸稲造 (1862-1933) は通俗雑誌といわれた『実業之日本』から編集顧問就任の懇請を受け、熟考の末これを快諾し、毎月同誌に寄稿を続けた。 新渡戸稲造47歳のときである。 新渡戸稲造は同誌に、「余は何ゆえ 実業之日本社の編集顧問となりたるか」を書き、その決意の理由を五つ挙げている。 その五番目に「営利第一でなく、読者の利益を想い、個人の幸福、社会の発展に貢献しようという ジャーナリズム観に 共鳴する」と述べている。「具眼の士」の種まきをするのが 出版社、雑誌の使命であると考えられる。当時、象牙の塔に閉じこもる 狭量の学者から 通俗雑誌とか通俗講演とかの批判を受けた 新渡戸稲造は、理想と確信を堅持して、「我輩は専門センス(専門的知識)は教えない。コモンセンス(常識)を教えるのだ」といって、できるかぎり「陣営の外」に出かけていった。 まさに「見る人の 心ごころに まかせおきて 高嶺に澄める秋の夜の月」の心境である。 その後、この通俗と称された文章から、『修養』、『世渡りの道』、「自警録』などの名著が出たことは周知のごとくである。 すべて摂理の手の中にある。
内村鑑三 (1861-1930) は、札幌農学校で新渡戸稲造と同級生であり、学んだ水産学を生かすべく 国に奉職したのち、アメリカに留学し、帰国後、いくつかの学校で教鞭をとるが、いわゆる「不敬事件」が社会問題化し、一方、自身も病を得、教壇から去ることになる。 しかし 不遇をかこつ何年かの間に 数多くの著作、論説を発表し、これらは教育や文学、芸術などを幅広い分野に 影響を及ぼした。ちなみに この時期に書かれた『Representative Men of Japan』(『代表的日本人』)は、新渡戸稲造の『武士道』とならぶ、世界のベストセラーになった。 こののち、『萬朝報』に招かれ 英文欄主筆となるなどジャーナリストとして活躍し、足尾鉱毒事件にかかわりを持ち、日露戦争に際しては非戦論を貫き、内村鑑三は 常に平和な社会を求める 言論を展開している。 さらに聖書研究を 目的とする月刊雑誌「聖書之研究」(1900年)を創刊、多くの人々に 影響を与えたことは よく知られている通りである。
人間は、自分では「希望のない状況」であると思ったとしても、「人生の方からは期待されている存在」であると実感する深い学びの時が与えられている。「表面的なhappy」vs「内から湧き出るjoy」の違いの考察の時でもある。