「心に咲く花会」樋野興夫コラム

一般社団法人がん哲学外来 理事長 樋野 興夫(順天堂大学 名誉教授)コラムです

第149回「心に咲く花会」 新渡戸稲造イズム 〜 和解と共生 〜

2021年6月17日 東京女子大学の理事会に出席した。 東京女子大学は1918年に創立されている。 佐藤昌介(1856-1939)が、推薦して新渡戸稲造 (1862-1933)は 学長に就任したといわれている。 佐藤昌介は、札幌農学校の第1期生として札幌農学校(1876年開校)の初代教頭 ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark;1826-1886)に学んだ。 1899年には、新渡戸稲造と共に、日本で初めて農学博士の称号が与えられている。 1918年 北海道帝国大学 初代総長となり「北大育ての親」とも呼ばれている。 北海道大学構内にある胸像「佐藤昌介像」を見学したのが、懐かしい思い出である。 1918年 新渡戸稲造は、東京女子大学 初代学長に就任。 職務にあたたのは、わずかで、1年後(1919年)ヨーロッパにわたり、1920年 国際連盟事務次長に就任している。 新渡戸稲造が、東京女子大学第1回卒業式の祝辞として送った手紙の中に、「1」本校は、― 知識よりも見識、学問よりも人格を尊び、人材よりは人物の養成に重きを置くこと、――人格主義、個人主義の教育を目標とすること。2)―本校においては形式を排除すること、――強制をしないこと。」とある。

 

新渡戸稲造が国際連盟事務次長であった 1922年に「国際知的協力委員会」(現ユネスコ)を設置し、当時のメンバーはフランスの哲学者ベルグソン (議長)、アインシュタインキュリー夫人ら 12 人で構成された。 筆者の東京女子大学との繋がりは、検事総長退任後に、東京女子大学理事長に就任された原田明夫 氏 (1939-2017) との出会いである。 1999年に遡る。 筆者の新渡戸稲造について書いた文章(記事)を読まれた原田明夫 氏から電話があり、原田明夫ご夫妻、筆者と妻の4人で学士会館で会食した。 原田明夫 氏は 盛岡地検の検事正時代に、地元南部藩出身の新渡戸稲造著『武士道』に魅かれ、 研究論文を書き上げられている。 大いに話が弾んだ。 それが2000年、東京・青山の国連大学での「武士道 100周年」記念シンポに繋がった。 同時に一番の思い出は、月 1 回 6:30pm 〜 六本木の原田氏の自宅で、朋子夫人の手料 理のカレーをいただきながら「21世紀の知的協力委員会」を開催したことである。 新渡戸稲造は、「平和のための砦の前哨基地」(国際連盟) で、東西文化の融和を図るところに世界の平和、人類の幸福があると訴え、その実現のため に奔走したのだ。 1927年、6年半のジュネーブ生活をあとにする時は、40数か国、600人 の事務局員から「送別の辞」が贈られた、と原田明夫 氏の論文にある。


2002 年『新渡戸稲造生誕 140年』、2003 年『新渡戸稲造没後 70年』、さらに 2004 年には、 国連大学で『新渡戸稲造 5000 円札さようならシンポ』を一緒に開催してきた。 2003年は、新渡戸稲造の母校札幌農学校のある札幌でシンポジウム「なぜ、今、新渡戸稲造な のか?〜遠い過去を知らずして、遠い未来は語れなし〜」が開催され、原田明夫 氏は「新渡戸稲造に 学ぶ・和解と共生への条件」、筆者は「新渡戸稲造との出会い」を講演した。 それが、『われ 21 世紀の新渡戸とならん』(日本語版 & 英語版)の出版に繋がった。 原田明夫 氏との「人生の邂逅」は、筆者の貴重な宝である! 順天堂大学に就任して、2004 年に、国連大学で『新渡戸稲造 5000 円札さようならシンポ』を開催した。 また、2013 年の『新渡戸稲造 没80周年・新島襄 (1843〜1890)生誕 170周年シンポジウム 〜 今、懸け橋をつくる。― 国を超えて、時を超えて! 〜』が、走馬灯のよう に駆け巡ってくる。 そして、筆者は、2019 年に「新渡戸稲造記念センター 長」に招かれた。


原田明夫 氏は、東京女子大学で、「多様性と共生への視点〜世界で・社会 で・家庭で〜」と話されている。 「争いのない社会を築くために 何を拠りどころに考え、行動すればよいのか」、「国際社会で尊敬を集め、活躍するには日本人はどうすればよいか」は、混迷する世界、低迷する日本の国際的地位向上の「新渡戸稲造イズム」である。まさに、新渡戸稲造の精神「賢明な寛容性」であろう!