「心に咲く花会」樋野興夫コラム

一般社団法人がん哲学外来 理事長 樋野 興夫(順天堂大学 名誉教授)コラムです

第347回「心に咲く花会」 『興す』 〜 『勇気と忍耐とを足とする』 〜

2024年5月5日(こどもの日)は、2013年5月5日に92歳で逝去した父(廉平)の命日でもある。 今回、5月2日帰郷したとき、父の墓に赴いた。

筆者は、1954(昭和29)年3月7日、出雲大社から北へおよそ8キロにある島根県大社町(現出雲市)の鵜峠で生まれた。『出雲風土記』にも登場する日本海に面した小さな村である(現在 人口37名、空き家60%)(添付)。 筆者には姉が2人いる。 『興夫』という珍しい名前は、『家を興す』という願いを込めて、船乗りだった祖父の卓郎が付けた。 母の寿子の兄2人は戦死した。

筆者の名前に『興』が使用されているのは、2人の息子を 戦争で亡くし、末娘(私の母、父は婿養子)が継いだ『木綿屋』家を『興す』ようにと祖父が 命名したと 幼き日から聴いて育ったものである。【倒れても 勇気と忍耐とを足とすれば、再興必定。これもまた 人生の法則】(新渡戸稲造:1862-1933)が、鮮明に蘇った。 少年時代は、お寺の境内で野球をしたり、海で泳いだり、 夕暮れには、一人、海に石を投げていると、30メートルぐらい離れた後方で、夕涼みをしているお年寄りが見守ってくれた。 『本当の自分の姿を 見てくれる人がいたなら 周りの人生も 豊かにしてくれる。』ことを、『がん哲学外来』の個人面談で、実体験する日々である。

地元の人々は、漁業や土木作業などで黙々と自らの役割を果たした。 その姿が印象に残ったものである。 父の廉平は、貨物船やタンカーの機関長をしており、年に1、2カ月しか帰らなかった。 家は広く、ニワトリを飼い、ヘビやイノシシが部屋に入ってきたこともあった。 村に医師はいない。筆者が病気になると、母が背負い、トンネルを抜けて数キロ先の鷺浦にある診療所まで連れていった。 山道を母の背中で揺られながら、子ども心に『大きくなったらお医者さんになろう』と決めたという。

『すべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』(ローマ人への手紙8章28節)