2022年2月11日『樋野興夫先生講演会・パネルデイスカッション医療の隙間を埋める〜がん哲学外来とは?〜』【主催:コホミン(我孫子市湖北地区公民館)、共催:がん哲学外来あびこカフェ(代表:中野綾子 氏)】(添付)に赴いた。 第一部は、中野綾子 氏の司会で、下記のインタビュー形式の講演であった。
① 樋野先生のふるさと紹介
② がん哲学について
③ がん哲学外来について
④ 言葉の処方箋いくつかご紹介
⑤ 先生の著書ご紹介
筆者の故郷(島根県出雲大社鵜峠)は無医村であり(添付)、幼年期、熱を出しては母に背負われて、峠のトンネルを通って、隣の村(鷺浦)の診療所に行った体験が、今でも脳裏に焼き付いている。 筆者は、人生3歳にして医者になろうと思ったようである。 思えば筆者の人生は、小さな村での少年時代の原風景、学生時代の読書遍歴『内村鑑三(1861-1930)・新渡戸稲造(1862-1933)・南原繁(1889-1974)・矢内原忠雄(1893-1961)』、癌研での「病理学の出会い:菅野晴夫先生(1925-2016)」、アメリカでの「学者の風貌との出会い:Knudson博士(1922-2016)」と「人生邂逅」の「非連続性の連続性」であった。 小学校の卒業式の来賓の挨拶「少年よ、大志を抱け」(1887年札幌農学校のクラーク博士:1826-1886)の言葉を強烈に覚えている。 筆者の人生の起点であると言っても過言でなかろう。 英文で書かれた『武士道』(新渡戸稲造)と『代表的日本人』(内村鑑三)は、若き日からの座右の書である。 悩める時に、いかに勇気づけ、励まされたことか。
医師になり、すぐ、癌研究会癌研究所の病理部に入った。 当時の癌研究所所長であった菅野晴夫 先生は、南原繁が東大総長時代の東大医学部の学生であり、菅野晴夫 先生から、南原繁の風貌、人となりを直接うかがうことが出来た。 さらに、菅野晴夫先生の恩師である日本国の誇る病理学者:吉田富三(1903-1973)との出会いに繋がった。 吉田富三は日本国を代表する癌病理学者であり、菅野晴夫先生の下で、2003年、吉田富三生誕100周年記念事業を行う機会が与えられた。 必然的に『がん哲学』の提唱へと導かれた。 そして、『陣営の外=がん哲学外来』(添付)へと展開した。 『がん哲学』とは、南原繁の政治哲学と、元癌研所長で東大教授であった吉田富三のがん学をドッキングさせたもので、『がん哲学=生物学の法則+人間学の法則』である。 『がん哲学外来』は、生きることの根源的な意味を考えようとする患者と、がん細胞の発生と成長に哲学的な意味を見出そうとする病理学者の出会いの場でもある。 筆者が『がん哲学外来』で語るのは、これまで学んできた先達の言葉である。 まさに『言葉の処方箋』である。
第2部のパネルディカッション、司会:田中玲子 氏の司会で、パネラーは、福原幸子 氏(柏がん哲学外来)、森尚子 氏(目白カフェ代表)、藤原琢哉 氏(カフェに通う方代表)であった。下記の思いを語られた。 真摯な姿には、大いに感動した。
自己紹介(がん哲学との出会い)
活動の様子(カフェに来られた方の変化の様子)
カフェとは一言でいうとどんな場所?
好きな言葉の処方箋
今後の夢
講演後、筆者は、個人面談3組(8名)を行なった。 早速、「今日の我孫子講演会に参加させていただきました。 樋野先生と司会進行の中野さんのパワフルな素晴らしい掛け合いに感動しました。 またパネルディスカッションも勉強になりましたし、励まされました。 ありがとうございました!」との心温まる励ましのメールを頂いた。 涙無くして語れない! 大変、有意義な貴重な『我孫子の旅』であった。